差別確認会・糾弾会は拷問です!、結局、あなたがたの思うとおりにしてしまう
政府の諮問機関、地域改善対策協議会が「部落問題と言えども自由に話し合う土壌が必要」と、磯村答申がだされる3年前、岡山県津山市で「本当に、糾弾を受けた人の声」を生で聞くという、出来事がおこりました、それは、誰もが経験することの出来ない、すごい経験でした・・・・・・・そして、数年を経て「確認・糾弾会の否定」路線が本格化していきます。
★写真は、第1回-本音で語る-同和問題シンポジウムの報告集、新たなる潮流をもとめての表紙です
1981年7月13日のことです。誰もが経験したことのないとても重大な体験でした、「確認会は拷問です・・・・」と実際に確認会を「差別者」として体験したSさんの発言は、ショックでした・・・・・。
★何回か立ち上がりかけました・・・・、言い訳や、そうではないと、言いかけました・・・・・。しかし、黙って聞きました、午前10時から午後4時頃まで、171人の市民が集まって、世にも不思議な、「部落問題の討論会」が行われました、部落解放運動団体の者が「差別発言でも、何をいわれても、黙って聞く・・・」と約束をしたシンポジウムが幕をあけたわけです。写真は、報告集の製作者である末永弘之の38歳の写真と、挨拶文です、若い、と思います。
★やおら立ち上がった女性、この人の発言が、空気を変えました→本当のことを教えたげる、市役所にお金を借りる手続きに来て、私らが「あなたは○○の保証人なっており、この人が支払いを滞納しているから貸し付けは出来ない・・・」とどんなに説明しても「わかってくれない、大声をだす・・・そして、最後は、組織の名前を出してくる・・・・、(私を指差して)末永さん、あんたの名前を出して、明日は組織をつれてくる、あれに貸してなんでワシに貸せんのか白黒つけてもらうから、覚悟をしておけ・・・といわれる」と述べた後、「こんな人の後押しを部落解放団体がやっていて、差別が無くなると思っているのですが、あんたらは無茶です!」と淡々と説明して座りました。
この女性が、20回記念「本音シンポ」に登場して、この時の気持ちを「叱られるか・・・と思ったが、何も無かった・・・・、地区出身の保守の議員に良く言うたと誉められた・・・市長も笑っていた・・・」と語りました。
★この後ですね、「確認・糾弾は精神的拷問です、!、結局何もかも、あなた方の思うようにしてしまう、それまでは特に何とも思ってなかったが、あの時から絶対にこの人たちとは、付き合わない、関りをもたない、と硬く心に決めました。あれが怖い・・」と、本当に、怨念をはらすというのでしょうか、一気にしゃべりました、すごいことがおこった・・・・・、下を向いた顔が上がりませんでした・・・。
■この人は・・・・、今(→注・本音シンポの開催時期1981年)より数年前に、私が「青年行動隊長として大声をあげて、たっとれ!、座るな!、差別したんか!・・・」と確認・糾弾した人でした。すごかった、何が?、確認会が?、この発言が?、これを聞いた人たちの気持ちが?、何よりも私の心が・・・・。、
★この人との出会い→差別事象とは←この人が経営する商店で、ある二人の男女が「不倫関係」となり、男性の側が女性と別れ話となり、「美作解放会館」(旧部落解放運動連合会美作地区事務所)の名前が使われたり、経営者として中に入り、子細は不明ですが、岡山市の「探偵社」に身元調査を依頼するなどのイザコザがあった事象と記憶しているが・・・・・正確さはない。探偵社が「事務所の名を使っての手紙」なども出していたのでは・・・。
★写真も取りません、録音もしません、メモだけは取らしてくださいと述べてはじめた-本音で語る-同和問題シンポジウムでした。各自のメモをたよりに、上記にアル「新たなる潮流をもとめて」の報告集を5000部製本し、増刷もし、多くの人に読んでもらったと思い出しますが・・・・。
★この時のメモや報告集、呼びかけたきっかけや呼びかけ文章、「確認会をした人への参加要請」などを全解連中央を通じて、磯村栄一中央地域改善対策協議会会長に手渡しました。たしか、地対協が、解放同盟、同和会、と全解連と三団体へ「これからの同和行政のあり方」についての意見を求められたときと記憶しています。そして、委員さん全員に届けられました。この経験と資料が・・・・・。
ここからです/1984年6月19日「地域改善対策協議会意見具申」として「今後における啓発活動のあり方について」が発表される。
★この「意見具申」で、「民間運動団体の行き過ぎた確認・糾弾会の是正」「同和問題についての自由な意見交換ができる土壌が必要」との画期的な方針が政府筋から発表されていきます。
-もちろん、津山の「本音シンポジウム」の経験がどれだけ参考にされたか、本当にされたのか、されなかったのかなどは一切不明です、あるいは全く関係なく、時代の流れ、理論的な学術的な論議が生かされたのかもしれません・・・しかし、津山が全国のどこよりも早く、しかも、心底、「差別するなから、差別されない人間像づくり」をめざして、「本音シンポ」を作り出し、新たな部落問題の潮流を作り出したのは1981年7月で、政府地対協意見具申の方針が1984年6月に出されたのは歴史の事実です-
★写真は、この当時、組織の内部で、街頭から「運動への参加を宣伝カーで呼びかける」とか「行政に挨拶に行く」(前期分補助金、集金旅行と、末永軍団が批判を強めていたスタイル)要求貫徹実行委員会の運動が、部落問題の解決をめざす国民運動へ、移行しかけており、「住民との懇談会」方式へ変わろうとしていた時期であり、支部代表者会議で問題提起をする末永です。
★この人とは後日談が沢山あります
その一は、確認/糾弾会で、「もう差別はしません、あなた方の運動に積極的にご協力します。差別のない職場を作ります」との旨、「確認書」が取り交わされまい・・・・が、事務所にも顔をみせることもなく、何もおこりませんが、完全に「没交流」状態となります。
★特に何とはなく数年が経過したとき、突然と、確認書をだしている「運動団体」から、-本音で語る-同和問題シンポジウムへ参加して、あのときの気持ちを率直に話してほしい・・・と手紙が来たのです。そんな馬鹿な!、何を言い出すのか・・・と率直に思ったそうです。
★それでも、書かれていた文章・・・・「あの時は、私たちの取り組みの不充分さから、腹立ちまぎれの確認会になったのではないかし、今は、赤面しているところです・・・・」と書かれているのに、気持ちをひかれて、参加してみようか、と思ったそうです。
本音シンポが新しい人間関係を作り出します
組織にいわゆる「確認書」出しますが、それはそれ、特に何もありませんが、この本音シンポで発見をされてから、毎年、運動へカンパをして頂く様になり、学習会などにも時折顔が見えるようになります。そして、ときおり私たちとの対話がはじまっていきます。断片ですが、数年かけて、話してくださった、その日の模様を私流にまとめ、解釈しますと・・・・・
又、叱られると思いましたが、話し始めたら、頭が真っ白でした・・・・・、何を言ったか覚えていません・・・・・、何も言わないで、唇を噛締めているあなたたちの姿が目に入りました・・・・・、あの時私に大声でどなった人が・・・・・、私の胸の仕えがおりて、あの日、やけに興奮して・・・家族に話して聞かせ・・・泣きながら一杯飲みました・・・・、、
★様々な経験を「津山からのレポート、夢発信」として全国講演わ繰り返してきました。その一つ、
長野県佐久市での講演を再現したコーナー
です。
★一番側近の講演会は、
2002年5月26日徳島県鳴門市でした
、その時の模様をお知らせしています。
★今、
話題の長野県で、私たちの夢が実現しました
、田中知事が「同和の終結」へ歩み始めました。
★市民運動団体、社団法人「さくら会館」が、全国人権・部落問題研究集会
高知県で、私たちの「同和でない」運動を報告
しました。