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無題/今、思うことは・雑感徒然日記

2002年4月に思い出すまま〜11月へかけて思いつくままのコーナー

同和という線引き地域が法の上で無くなりました


★2002年3月末で「同和地区住民/線引きとしての地区」がなくなりました。部落解放運動の終結へ、津山の部落解放運動を綴じます、 2002年5月12日に 、新しい扉を開きます、市民集会の画面へ訪れてみてくださいね。 2002年3月31日をもって「同和向け特別措置法を終了する」、まさに夢のような時期を直前にした。私が市議会議員になった時には「同和対策事業特別措置法」が制定された直後だったような記憶がある。それから30数年、いろんなことがありましたが、特別措置がある限り「差別はなくならない/部落差別は残る」とかたくなに訴え続け、「部落問題の解決へは、特別措置のない時代を絶対に一度は通らなくてはならない、だとすれば、一日も早く部落問題を解決させようとすれば、一日も早く終わらなくてはならない」との考えがあっての訴えであった。

★写真は、全解連津山市協議会の教訓を美作地域5郡へ広げたシンポジウム風景 ★同和対策の特別措置法は、「同和」という新しい言葉を作り出し、劣悪(実態には疑問がある言葉)といわれる「同和地区内」の環境を大きく作り変え、部落への偏見や差別をなくする役割を担ってきた
★ところが、今日、逆に多くの弊害を作り出した。
★それは、「特別措置にたよって生きていく人たち」(制度の利用だけでなく、゜差別するな゛の言葉で相手を黙らせることができると言う風土を利用して社会生活を、自分に有利に動かす層も含めて)を作り出し、「部落・同和」を背景にして「得意がって活きていく人間像」までを作り出してしまった。

一部「心無い人たちの行為」が全体を支配する

思いもしない現象であるが、今、こんな地区の人たちの存在が「差別を助長している」のである。まさに、差別が残っているのは、ここに残っているといえる社会現象ではないか?、もちろん、圧倒的な多くの地区の人たちは、こんな潮流とは関係なく、まじめに真剣に活きている。しかし、残念なことに、このまじめな人たちは社会的に「目立たない」存在である、もちろん、それが当然なことであるが。極一部の人たちの「社会悪」をモッタ人たちの生き様が、さも地区住民全体の生き様のように評価されるという不合理が強い「部落問題」でもある。 ◆だから、幾つかの矛盾があっても、徳ではなく損をしても、たとえ差別が幾分かあっても、特別措置をなくすることが寛容、部落差別解消の第1歩になる、そこを通らないと絶対に部落問題は解決しないと、本当に、真剣に全国にも、津山市内でも訴え続けて、30年近い歳月が流れた。
◆今、そこだけを自分に問いかければ「感無量」という心境だろうか・・・、しかし、これからが真剣勝負、特別措置法の「残骸」ともいうべき社会現象は、いわゆる部落への偏見・差別といわれる課題もあわせて、過渡的経過的措置として社会には残るであろうが、特別措置がないのが当たり前の時代へ数年たってから、普通の社会になったときに、人として尊ばれる人間に、地域になれるのか、ここからが、私たちの新たな決意が必要なところではないだろうか。

ここから下の物語/視点の違いが津山らしさを作りました


いかめしい肩書きの名刺配りのお話
★20数年になるのでしょうか、全くの普通の仕事をしていた、活動経験も無い若者が「営農相談員」として、全解連の専従になりました。お勤めの初日、あいさつ回りに連れて行くからの言葉、名刺を印刷して渡してくれたそうです。本人は、てっきり地域、支部などへ挨拶をと考えたようでしたが。

@市町村の役場周りをしました→

★部長室や町長室へ丁寧に迎えられて、お茶をごちそうになり、先輩がご機嫌よろしく「内の若い者です、全解連は若いのがおろう、頼むで・・・」と紹介し、後は、雑談です・、何か少しだけ、相手が気配りしすぎ、こちらは、やや、ふんぞり返り気味、?、と思ったそうです。


A奥の院に入り、名刺を交換して・・・・、→

★「いんぎん無礼」とはこのこと、くそ丁寧に町長が、部長が、課長が、頭をさげて「名刺の交換」わしてくれました、が、・・・。部落解放運動連合会・・・の肩書きのある名刺です。昨日までは、普通の人間、役場に行っても、何一つ頭を下げられたことはないのに・・・・・部落解放という「名前」だけで・・・・役場の奥の院では、こんなことは茶番劇なのか?・・・、日常的なできごとなのか・・・?・


Bそれでも解放同盟よりは良い→

★全解連の方が気を使わない、気が楽、との話も聞きました、これは何なら、この人らは変なことをしている、自己満足だけ、おかしい、無茶に腹が立ってきたそうですが・・・。行政周りが終わって、翌日も、その翌日も、いつまでたっても。支部には、地域には紹介がありませんでした、1ヵ月後の支部長会議なる会議で紹介をされました・・・・。


Cある先輩に「なにっ」と聞きました。→

★「わしらの運動はすごかろう・・・、ここまでなるのに60年、苦労があったんで、昔はナぁー」と話を聞かされました、そんな話をするときの先輩は、とても輝いて、元気で、熱心で、生き生きとしていました。


Dもう一人、津山の委員長に聞きました→

★津山の委員長に「これって、おかしんじぁーないん」と胸の内を語りました。特に、印象に残る言葉をいったわけではありませんが、全国闘争となずけて、行政まわりをして補助金を受け取っていただけの運動から、支部や市町村協議会での学習会が生まれました。行政まわりをやめて「対話懇談会」をおこない、美作地域31の自治体で多くの住民団体との「自由な話し合い」のテーブルが用意されました。昼間、街頭から宣伝カーで「運動に参加して、要求実現を、全国の兄弟姉妹よ」と訴えていたのをやめて、新しく、集会所で「支部の学集会、話し合い」のスタイルへ国民運動が変化していきました。


Eたどり着いたのは→

★私は、津山の委員長と「名詞配りの仕事」を止めました。そして、行政や教育の関係者に「普通にあつかってほしい、ペコペコするな」と訴えてきました。そしきの内部では、町長室でのお茶が、あたり前、運動の勝ち取った成果だ、と思わないように心がけてきました。
部落解放要求貫徹全国闘争と言われていた時代から、部落問題の解決をめざす国民運動対話懇談会へと、運動の質が変化、発展していく前の印象深い歴史の事実です。

★この経験もすごい葛藤でした、「私たちだけがもらえるお金は嫌!


集会所からの「謝金」をやめたら運動が終わる・・・と先輩たちが教えてはくれました、が・・・、

かなり悩んだ課題、皆が、特に若い人が、結論を出しました。


★「私らだけが特別にもらうお金があるかぎり「部落差別はなくならない、やっぱりと言われる行為を地区内からなくしたい」の声は大きくなっていきましたが、経験豊かな、同和特別対策を作らせるのに苦労をして成果として勝ち取った闘志のある人、先輩たちからは「せっかく私らが勝ち取った集会所のお金、もらわなくては・・・・、昔はなぁー個人の家で支部集会などをしていた、それを改善させるために自分らが運動して勝ち取ったもの・・・、講師の謝金としてお金も出るようになったで、とさとされました。
★末永くんらは、それを止めようと言うからおかしい、支部では運動ができなくなる、じゃけん末永くんは嫌われる、強引で大衆の気持ちがわかっていない」式の反論、反対の声に随分泣かされました。
★時には、岡山〜津山間の列車の中で「末永の悪口と津山市協議会の運動、やり方の批判」を、津山市協議会の「古い書記長」から言われ続けた女性部の幹部も現れました。しかし、その女性部幹部は「特別のお金はもらわない方針」にあくまで賛同でした。地域では、若いPTAの人たちが「私らの子どもだけがお金をもらう制度は嫌だ」と頑張りました、解放同盟の影響だけでなく、人間誰でもが「お金になるなら」の考えがある中、大変な葛藤のなかでした・・・・、特別措置法制定下でしたが、18館の内14館が「謝金など完全に断り、自主運営」にかえました。

立派な家になったが本が無い


(いまでは珍しいトタン葺きの自宅/立派な家になっていません、右が立派な家の典型)


★本音シンポジウムの最初のころ、とても言いにくそうでしたが・・「お家はとても立派になりましたが、家庭訪問などで感じることは、応接間に鎧兜、備前焼、高価な置物・・・、すごいと思います。しかし、本が無いと思います」・・・・、「えっ」こんな感じでした、何件か見て回りました→ここが物好きな津山の運動です←無かった、本当に少なかった、あっても本が違った、書斎をもつ家庭はゼロに等しい、「よその人」??(意味わかりますかの言葉)には何件かまわりますと時々書斎ありでした。
★鎧兜、置物もよいけれど「世界文学全集・日本文学全集を買おう」との運動方針、変な方針ですが、本当に、真剣に「本を買う運動」を呼びかけたんですよ、何故って・・・、おかしいと思いますか、おかしいのです、だから津山は・・・、末永くんは・・・・おかしいと、随分いわれました、が、この言葉が気になって、気になって・・・「鎧兜や日本刀を背中に背負って育つ子どもと、世界文学全集を背中に背負って育つ子どもと、30年、50年先の情緒が違う、違うはずだよ」・・・。
★そして、「本を買う」という方針が生まれました。今2002年5月です、本を買えと言い出して10数年、そろそろ、違いが子どもたちに出るころ・・・・です、末永委員長が世界文学全集でも買えというから「購入した」とい人が何人か出てきました・・・・・、運動ほうしんからぬ、方針が、さらに夢を日ロケで行きます。

★そんな方針を一所に考えた人たち、話を聞いた人たちが中心となって、「同和という特別の施策はいらない、私たちだけがもらえるお金は゛嫌゛」と言い切る地域が生まれてきたのは事実です。「特別措置がなくなったら、集会所の電気代がはらえなくなる、どうするか、無くなるということは単純ではありません。
★今のうち(特別措置があるうちに・・・)に「集会所の畳を新しくしてもらっておく」など主張する地域もあります、この調子でいきますと、「住民要求」はいくらでもあります、無限です、、、、運動団体は住民要求を実現するもの・・・・・、それを拒否したら会員がいなくなる」などの声を時々他地域から聞きます、が、・・・・・とかく物議をかもちだしてきた津山市協議会・・・・・、津山は、末永くんは、と陰口いわれましたが、時には「臨調行革のまわしもの」と評価されましたが、今、文学全集を買う運動を提起してきた「価値観」のようなものをしみじみと感じでいます。

★演歌・カラオケから、モーツアルト・ベートウベンがわかる文化を

1980年代後半から90年代にかけて、長い間津山市協議会の「運動方針」に書かれていたことです。

★演歌・カラオケは超一流、本当にすごく上手に歌いこなします・・・・・、この道でのさらなる頂点をめざしながら、モーツアルトやべートウベンが理解できる文化を、ビアノが弾きこなせる文化を求めていきたいと思います。
文化は人、人づくりです。


こんな運動方針があるものか?、と一部から「冷やかされ、冷たく眺められ」ました。

◆歌詞カードではなく、楽譜がないと歌えない?

これも実際に行きあたたった文化の違いでした、びっくりもしました。何かの記念集会の準備中と記憶しますが、「カラオケの先生」に出演の依頼をしたとき、「楽譜」を求められました・・・「違う」と率直に思いました・・・・・・、そして、運動方針に、またまた、変なのが登場しました。


★カラオケで「歌詞カード」を求めて歌いますが、専門官は、「楽譜→おたまじゃくし←を見ないと歌えない」といいます。楽譜を必要とする歌い手、おたまじゃくしがわかる、これが本物ということを少なくとも理解をして・・・・、歌詞カードではない楽譜を求めて一度歌って見てください・・・。

私と人権・同和問題リンク集

☆次のテーマに2002年4月末から取り組みます、 津山市総合計画と同和問題のコーナー
さくら会館関係 さくら会館
全解連津山市協議会
―本音で語る―人権・民主主義問題シンポジウム
さくら介護センター ゛夢発信゛
津山からのレポート講演会 ・「限りなく同和をゼロに」
長野県・千葉県・滋賀県・大阪府下・和歌山県・徳島県・高知県
兵庫県・広島県・福岡県などで講演会を開催してもらいました。 あなたならどうする、その1→ 同和地区の人間か
    その2→ 同和事業は行きすぎ、逆差別
    その3→もうなんともおもわないよ、 差別はなくなったと思う
    その4→ 子どもたちにどう教えるか 、部落について
    その5→ いろんなことがありました、雑感 のページへ ご意見などありましたらお寄せ下さい/自宅
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