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同和事業は行きすぎ、逆差別ではないか、

こんな意見によく出会いました、そんな時、あなたなら何と応じたか?

以下全解連津山市協議会(末永弘之委員長)が暗中模索と言われた1970年代後半の時期をすぎて、「部落問題の新たな潮流をめざして」20数年歩んだ経過のなかで、この命題にどのように対応してきたかを、時代の流れに準じて解説していきます、説明の流れから、下に、下に、新しい時代の説明となります。 ★末永弘之を委員長とする全解連津山市協議会が、「そのとおりです、同和事業はやりすぎです」と方針を作り出すのには、それでも数年はかかりました。
★やりすぎている事業はやめて、普通の社会、同和がない社会をつくる必要がある、特別の事業がある限り、特別になる、こんな方針を作り出したのは、昭和60年代の前半ですから、全国ではとても「早くから、同和はやめるべき」の方向を示唆していたのは事実と思います。そして、「もう同和特別措置の延長はすべきではない」と決意をしました。同和対策事業特別措置法が最初5ヵ年の延長になったときから「これで終わるべき」と方針を出しましたが、その道のりは決して平坦ではありませんでした、時には、津山市協議会の組織の運命をかけた闘いでもありました・・・。

20数年前の私たちの姿、説明は・・・。

☆同和対策審議会答申の精神を勉強してほしい
☆水平社以来の苦難の運動の歴史を学んでほしい、運動が勝ち取った成果である、
☆差別は今でも生きている、同和地区は差別されて環境が悪い
→こんな説明に明け暮れし、ある種の強要と押し付けの説得でした。

第1回-本音で語る-同和問題シンポジウム開催が1981(昭和56)年7月13日でした

-二回目を開くなど考えもしていませんでした、そして、結果として「同和」ではなく「部落問題」と変更して、翌年からシンポジウムが定期的に開催されていきます・・・、2002年2月が21回目でした-

このシンポジウムで部落タブーをなくす努力がはじまり、市民の率直な意見に耳を傾ける、こんな「部落解放運動」団体が津山で作られていきました。部落問題のあらたなる潮流と自らが自負し、自分たちがかわりました。

部落問題の新たなる潮流をめざして、暗中模索の時代を乗り越えて、新しい光が見えかけました。

★暗中模索といわれた時代をとおりすぎて、本音シンポが、新しい潮流として、私たちに「新たな光と教えを導きかけました」何かが見えてきた・・・・・・。
★同和事業への「怨嗟の声は、部落問題に理解していないからか?」この命題に真正面からの問いかけが行われていきます。
★あわせて、運動が変化していきます、差別するな、から、差別されない地域づくりへ、差別されない人間にどうしたらなれるのか、ここを新たな運動の出発点とし、新しい挑戦が始まっていきました。

時には、津山の運動は「臨調行革の回し者」と陰口を叩かれました。

津山の同和事業の特徴は→結果として「見直しの必要がない」と言われました

★その1は→同和対策として「減免措置」(税金・国保・保育料などを安くする)は一切しませんでした。 ★その2は→個人給付事業/お金をもらえる事業/には、初めから厳しい所得制限を加えました。所帯全体で県市民税1万円以内の所帯、地域改善財特法になって3万円としました。
-全国で始めて「低所得者向けの奨学金制度」を、一人月額1000円で作ったのが歴史の始まりでした- ★その3→各種の環境整備事業は周辺を一帯として改善してきた。
@道路改良事業→地区の出入口ではなく、道路の基点・終点を一つの基準として全てを「同和対策で行う」との視点を取り入れた。
A保育所建設→8つの保育所を「同和保育所」として位置づけたが7つは地区外にあり、保母や子どもの入所には、一切の「特別措置」を排除し、保育料も普通の保育所とまったく同じ運営方式を取り入れた。
Bホ場整備は、概ね1/2が地区民所有者であるとの規定を最大限使って、農家の負担金を「ゼロ」として地区内外の農地を整備してきた。 ★その4→水道事業は、同和予算を津山市水道企業会計に約20億円投入、アロケ方式といわれる施策を考え出し、津山市全体で「水道料15年ほど値上げなし」で全市9割の普及率へ支援してきました。 ★その5→育苗センターは津山農協の経営へ、特別対策を初めから排除し、地区の農家だけ安くするとの要求を排除して、全津山市の農家の苗を一箱約100円安くしました。 ★その6→地区子ども会や補修学習など「同和地区の特別な子ども会」は組織せず、教育は学校現場で責任をもってもらう、との考えを基礎に、地域では教師と保護者で「地域をかえる」学習をつみあげました。 ★その7→地区懇談会(同和教育で定例的に町内単位で学習会を強要する)は一回も開催無し、しかし、学校や企業では「同和教育が義務付けられる」という矛盾はもっていました。

本音シンポ開催から5年間程度

本音シンポ開催から5年間程度は、この津山の同和事業の特徴を「強調」し、部落解放運動の歴史を解いて伏せ


「地区だけが得をしているわけではない」ことをしきりに強調して来ました。 行政や教育委員会に対して「もっと市民に、上記の記事にあるような、津山の「同和事業の特徴」を説明する同和教育を行え」と申し入れなどを繰り返していました。 ★-本音で語る-部落問題シンポジウム、でも、随分と「同和事業は、逆差別、やりすぎ」の声が出されました、あわせて、第1回目から「ホ場整備や道路改良」などで、直接恩恵をうけた地域の人からは、「たいへん助かっている、ありがたい制度だ・・・」などの声も聞かれた・・・・、が、・・・・、違和感は拭いきれなかった。

市民要求実現と運動のあり方、力をあわせて要求を獲得してきた運動の成果も説明し市民の皆さんも力をあわせて一所に頑張ろうという意味の説明をし、署名活動や行政闘争を力説してきました。しかし、・・・・、この頃から「要求貫徹」とか「闘争」とかの言葉を使用することに「批判」も出されるようになり、「署名などに協力せよというのならば、要求貫徹では協力できない・・・」などの率直な意見も交換ができるようになっていた。

それでも市民は納得してくれませんでした、私たちも何かしっくりとしないままに月日が経過していきますが、第3段階ともいうべき方針が生まれてきます。

☆1980年代中ころには、

津山市内の公共事業の探索もし始めました、特に、道路改良のあり方、捕場整備事業のあり方など一般対策と同和対策とどのように違うのか、また、個人施策、特に給付事業についての違いなどを調査しました。


☆→津山の同和事業は違っていました。

全国での同和事業の実態も少しはわかってきました。同和対策として「税金や保育料」について津山市では「ヤッテナイ」ことでしたが、岡山県下ほどんどの自治体で、全国的には、ほぼ全地域で「同和地区だけ減額している」実態などを知らされました。??の連続が続いていきます。
→自分たちもシテモライタイの声もないわけではありませんでした。

沢山のメニューと、一つの課題が文字が多い、疲れます。少し雑用でもして気分を変えてくださいね。そして、コーヒーかお茶、お酒は避けたほうがよろしいかと・・・、でもゆっくり召し上がって、後は、一気に読んでみてくださいね・・・・。文字が多いHPでごめんなさいね。2002年11月4日に記入のコーナーです。

1983(昭58)年→前年の1982年に津山市で住宅家賃の値上げ問題がおこりました。

-この出来事が、私たちの方針に大きな影響を与えます、独りよがりの運動、慈善家ぶってる「活動家」の思い上がりを知りました・・・・・-

☆同和住宅も同じ率で値上げが提起され、同和住宅にすむ20歳代の若者に、同じ職場の市営住宅に住む若者から「家賃値上げ反対署名」の協力依頼が来ることが、私たちの考えをかえる大きな作用、きっかけとなりました。

一般住宅家賃の一ヶ月と同和住宅家賃の一年間の家賃がほぼ同じという「家賃の開き」が?を呼び起こしました


★党の議員団として「値上げ反対運動」を団地町内会の人たちと力をあわせて取り組んでおり、当然のこととして、同和住宅をもつ「支部・町内会」にも「反対運動への参加の申し入れ」などを行いました。

★この申し入れと同じ頃、暑いときだったと記憶していますが・・・・・同和住宅に住む若者が「解放会館」(部落解放運動団体の事務所、現在の「さくら会館」)に尋ねてきました。
→何で家賃が「安いのか」を聞かせてくれ、恥かしいから、同じでなくては困る、みっともないから同じにしてくれ・・・・・・、恥かしくて住宅に住んでいると職場で言えない・・・、家賃値上げ反対の署名が出来ない・・・、値上げは反対だが、・・・・どうしてくれるのか・・・・

こんな意味合いの訴えでした、私が一人で話を受けたと思います、・・・・、すごいことをいうて来た、この若者は、私らが「過去の運動と同和事業の実績だ」、と高々とのろしをあげている運動を・・・同じ人間としての苦悩をぶつけてきて、真っ向から批判をしている・・・、この若者に、運動や事業の経過の説明や、ましてや「差別がある」との話をしてもいけない・・・、これは、何だ、?・・・、この若者の心を開かせているのは、部落解放運動ではなく、むしろ逆だ、普通の若者なんだ、住宅に入っているという共通の土壌に「差・違い」があってはいけないんだ・・、いままでは、職場で同じ土俵で話が出来ていた→市営住宅に住んでいるという同じ生活環境であるという意味・・・、それが、家賃という現実の前に・・・、もろくも崩れたんだ・・・・。運動を知らないから・・・、先輩や私らがどれだけ苦労をして「同和住宅を建設してきたか、知らないからだ・・・・」と一概にいえない、何かをこの若者は運んできた・・・・、部落解放運動へ・・・・そう思った瞬間でした。(この項は、後で述べる寸劇の脚本づくりの原稿から加筆しました→2002年11月4日です)

☆一般住宅の一ヶ月の家賃と同和住宅の一年間の家賃が「ほぼ同じ・・・こんなに家賃が違う」これでは、住宅の家賃を値上げするなと言えない・・・・・、そんなことをすれば、益々職場で話が出来ない、家賃値上げ反対運動が盛り上がれば、盛り上がるだけ、話があわない、「隔離される」ことを実感として味わい、思い悩んで、いわゆる「肩身の狭い、家賃値上げ反対運動」を体験して、重大な決意で、末永弘之を訪ねてきまして「家賃を同じにしてほしい、自分らの家賃を上げてもよい、同じように友達と話がしたい」の訴えでした。


★この体験を、寸劇につくりあげ、飛騨高山で行われた「全解連青年集会」で上演、これが、津山市協議会が、いわば、演劇とか文化とかを創作するという第1作にもなりました。
当時、30歳代後半の末永が脚本と監督を担当、今、事務所におる者でいえば、山本正市さんを筆頭に、亡くなった北畠、市民生協に勤める安藤卓也や末永克己などバス一台で飛騨高山へ勇んででかけ、意気揚々と演じてきました、そして、美作水平社創立60周年記念式典でこの寸劇を再び上演しました。
★多くの人が感動、これからはこの道でなくては、こんな考えが出ることをまっていた、等などの意見、そして、全国の新聞で紹介するからと記事への取材も行われました、が、がです、未だに、その記事と写真は、見たことがありません。→ここに津山市協議会というより末永弘之がおかれている現実がある←
★ある全解連中央幹部は、この寸劇を見て「塚本や松下の指導か」と山本正市さんに尋ね、正市さんが「無茶いうな、塚本や松下しか津山にはおらんと思っているのか、二人は何もしていない、関与もしていない、見ても何も言わない、冷ややかな目だ、無茶なことをいうな!」の抗議にも似た悲鳴をあげて立腹するというおまけまでつきましたこれは、飛騨高山の現場で実際にあった物語です。 この「市営住宅家賃の経験」は、津山市協議会に重大な決意を呼び起こし、「臨調行革のまわしもの」との批判の中でも、一部の「冷ややかな目の中」でも、「特別の法律はおかしい、不必要」との運動を提起していきます。

「同和事業はおかしい法律、もう特別の対策を継続すべきではない、公正・民主の改正延長もいらない、特別の対策があることがおかしい」と主張しはじめます。 

津山市協議会運動方針より→特別の対策のない社会、山の向こうに何があるか不安、損をするであろう、しかし、一度は通らなくてはならない道、荒海であれ、なんであれ、山を越えて、特別対策のない社会へ、降りなくてはならない、ともかく特別対策のない社会を一度作ってみよう・・・・。 津山もですが、全国では、全県では、どういっても、たしかにやりすぎの感あり
☆個人施策のすごさは格別→ゆりかごから、墓場までを補償する、一般の福祉施策ならば、完全に福祉国家実現の感ありでした、住宅家賃だけではなく、津山市では行ったことがありませんが、「税金」を「保育料」を「水道代」までもが、同和という理由で「半分以下」ぐらいに安くしている、という現実には「唖然」としました、それが「部落解放運動が勝ち取った住民闘争、住民要求闘争の成果」であったわけです・・・。 ☆箱物建設や器具購入に(集会所と冠婚葬祭をふくめた道具・農機具導入に農機具保管庫・墓地移転事業・住宅)に個人負担一切なしなど
☆圃場整備事業も個人負担なし、水道敷設も一戸一本立ち上がりまではすべて無料

☆道路のつくりが違う、農道の舗装率が広さが違う、

☆そして、団体補助金、各種学習講座への補助金、集会所利用に伴う講師謝金一年に国と県で250万円の現金が25戸以上の地区に下ろされる等など、当たり前とおもう同和施策が、実は、やりすぎ、一般対策と比較して、立派過ぎる。 ☆これらが、たとえ、地区周辺の人たちと「共同の事業」として実施をしたからといって、集会所の子供会に地区外の子どももいれて実施しているからといって、根が「同和」である、違いがある、わずかばかりの「修正・変更」しても、「同和事業はやりすぎ」である、と認識を強めていきます。

この施策の違い、差別された代償論でよいのか、いつまでも続けてよいのか、差別するな、と自信と勇気をもっていけるのか、こんなやり方をする運動を若い者に引き継がせるのか、何をしている、この運動は何を目的にしている、本当によいのか・・・・・

何度も自問自答が続き、支部に出かけては嘆き、こたつを囲んで話をつづけ、事務所に帰ってはつぶやき、家に帰って妻と話し合い、行ったりきたりしながら、しかられ、ほめられ、一所に悩み、やや、おだてられ・・・。

☆到達したのが→、同和事業は逆差別になっています、と現状認識をすることでした。市民の目が変わりました。

その理由に言い訳や差別や運動の歴史や法律の制定や、まして、同和対策審議会の答申などの話は全く不必要、むしろ邪魔になる、やりすぎはやめなくてはならない、逆差別現象は、率直に認めなくてはならない、この方針でした。簡単な結論でしたが、ここに来るのに10年の特別措置法下の事業推進や「強引な当たり前論」や「言い訳の方針」を作り上げていました、しかし、余分ないい訳をやめて、スッキリと「やりすぎの事業はやめなくてはいけない」と自然体で考えるようになっていきます。

ここから、特別措置法は「おかしな法律」との考えが生まれ、「民主的改正」の名による法の延長や新法制定には基本的に反対の方針が生まれてきました。そして、「全国で、ある地域の道路新設の要求がある」と仮定して、その要求がある限り「特別措置法が必要」との論理をつくることへ批判をくりかえし、特別扱いがある限り「差別はなくならない」と主張をはじめていきます。


法が延長され、新法がつくられるたびに、「細切れ基本法が生まれた」「部落差別解消ははるか彼方へ・・・」と嘆いたものです。
解放同盟の「部落基本法制定」を羅針盤を失った海賊船と例えていましたが、「民主的改正・延長」を主張する人たちを「海賊船に引っ張られ、それを利用する豪華船」と述べて「全国から批判的目で眺められた」「冷ややかな目で見られた」経験もしました。時には「津山は臨調行革のまわしもの」と評価をうけてきました。

全国の各地で、解放同盟のやり方を真正面から批判し、何とかしたいともがき、苦しみ、それでも闘っている地域の人たちからは、津山のやり方は゛目から鱗が落ちた゛と言われました。

全国へ゛夢発信゛いつまでも同和・部落ではない

ここから、全国へ、-本音で語る-部落問題シンポジウム、津山からのレポートと題する講演会が生まれ、やがて、゛夢発信゛と名づけた講演会が生まれてきました。2000年代になって、やっと、本格的に全国的に「終結への課題」が全解連組織内で「本気で論議され始めた」と感じています。
2002年11月4日に「ほぼ」書き上げました

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メール  sakuraka@mx1.tvt.n.jp
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