こんな意見によく出会いました。それにたいする対応も歴史の刻み、遍歴があります。
具体的な「差別事象」を見出して、ちかくに見つからない場合は、全国の差別を、そして、10数年前の事件でも引っ張り出して、さも、もっともらしく「差別がある」ことを解いて伏せ、差別された歴史、悲しい歴史を、解いて聞かせてきました。同和対策審議会答申を学んでほしいと力説もしてきました。現に、゜幾つかの差別事象゛があり、ある、ということが一定の真実味をもっていた時代的な背景もありました。「もう何ともない」とか「差別はないと思う」「あなた達の゛ひがみ゛もあるのではないか」などの意見が出されると、とことん追求して「ないことはない、ある」と強調していたのが、それでも1970年代後半、80年代に入るころまでは続いた運動のあり方ではなかったでしょうか。
(82年の2回目から「部落問題」とした)を開催する直前まで「自由に話してほしい」と対話懇談会を無数に開いていました。その中で「一言質問や意見を言うと、30分は説明してくれる、結果として「叱られる」との感覚でしかない」との旨を、ある婦人から言われました。部落タブーの生まれる原因が、そのように言われる運動の側、私たちの側にある、と気づき始めていきます。そして、「黙って聞く、市民の声に耳を傾ける」、そんな集会をよびかけたのが本音シンポジウムでした。このシンポジウムの積み重ねで、私たちが、変わりました、運動も随分と代わりました。
何とも思わない、ない、と言うことを信じてみよう
それでも、数年は、この後に「騙されてもよいから」の括弧書きをつけた方針でした。
@差別はないと言っているのに、私たちは、何故「ある」と強調するのか?
A何とも思わない、というのに、差別心があると思ってしまうのか。
B差別をなくしたいと願い、運動しているのに、なくなった、何ともない、といえば、そうか、そこまで来たか、と喜ぶべき現象ではないのか、私たちの運動は、何やってる、?
こんな自問自答が繰り返し、繰り返し行われていきます。「差別心がある」と言うまで追求する?、こんな運動があるのか、?、
1980年代に入ったときには、完全に「暗中模索の中から、何かが見えてきた」感じをつかみかけていました。
全解連の中で、臨調行革のまわしもの、津山は臨調路線だ、と真っ向から批判を受けながらも、それでも、何かがおかしい、と本当に、真剣に-本音で語る-部落問題シンポジウムを開催し、差別されない人間にどうしたらなれるか、どこが差別される原因なのか、などを追究し、自問自答を繰り返していきました。
★あなたならどうする→
あんたは同和か
、こう言われました、私たちは・・・。
★あなたならどう対応するか→
同和事業はやりすぎ、逆差別だ
、→あなたならどうしたか、私たちは・・・。
★
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いつまでも同和・部落ではな
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