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大林先生と私/半生記の思い出に欠かせない大切な人でした。かくして「末永軍団」が生まれました


★大林秀弥先生、東京帝国大学卒、作陽音楽大学名誉教授、経済学者、日本共産党津山市後援会会長、津山平和委員会会長、美作部落問題研究会会長、ナドナドヲ歴任していました、亡くなられたのが2000年4月、私に数多くのものを残してくれました、先生の意志を少しでもついで行きたいの思いで、このコーナー作りました。
(末永軍団の銘々は亡き大林秀弥先生でした)

「部落解放運動つやまのあゆみ」編纂委員会本格的に学んだ3年の歳月をかけた作成でした。

-現在も販売中、2,500円送料別、お買い求め下さい、津山の特徴ある部落解放や事業?教育などの歩です-

★「つやまのあゆみ」部落解放運動誌を作成したのが、全国水平社60周年記念・津山市協議会25周年記念大会の「事業」としてでしたから、1982年8月からである。


★印刷・製本として出来上がったのが1986年7月5日ですから、足掛け3年、私の半生記の記録としては、忘れられない「出来事」をふくめて、多くの学者といわれる人々の「知的感覚」と「専門官としての自負心」を心底知らされた経験であった。別の項目で「思い出記」にしていますが、この本の制作費などの扱いを巡って、本格的な「津山市協議会の内部抗争事件」へと発展し、2人の先生が「あくまで末永くんを信じているよ、あの人たちは本当に何もしなかったからね、一行の記事も書かなかったのではないか」と名言をはき、この人たちも「末永より」(軍団)と評価されるという憂き目にあったのである。

★北原信一郎編集長/大林秀弥事務局長・末永弘之小委員である、名前を公然としない「歴史の先生」の存在も大きかった、古い資料はこの先生が沢山集めてくださった。


★そして、今は二人ともなくなったが、北原信一郎先生と大林秀弥先生の二人の先生には、いつの頃からか「末永軍団」といわれ、息子のように可愛がって頂いた、忘れられない人と人の関係を作り出してくれた、人づくり、文化・心での最初の出会いでした。そして、数多い裁判物語を作った「一方の側」の物語が生まれてきました。 ★「そうか、末永くんがそういったんか・・・・」と、とても嬉しそうに2人の先輩が笑いながら聞いてくれた話がこの話でした。特に大林先生の笑い顔が今でも瞼に浮かびます

★部落解放要求貫徹国会請願といわれていた時代、日本共産党議員30歳に成り立て頃のお話です。
末永→「土曜日と日曜日を休むのではなく、土曜日、日曜日、夜に地域での宣伝をすべきではないか、昼間だけ、しかも、10時から3時までとは・・・おかしい運動ではないか、運動の相手、目の行き先が行政になっているからではないのか・・・、そんな運動はないと思う。
先輩たち→「共産党か、議員か、何者か知らないが、若いのに生意気な、運動もなにもしらないのに・・・」 北原・大林、その他の党内外の教育者や自治体労働者が共通して頭を悩ましていた事実は-「部落解放運動における活動家」の中に「偽共」という言葉が公然とつかわれていた-その背景として、地区内の自治体に、部落解放運動家と日本共産党と兼ね備えた議員が沢山あった-。
そして、差別事件が起こると、補助金が増え、保険に加入させられる人たちがもてはやされ、立派と評価されていた時代でもあった。心痛めていたか、タブーのなかにもがいていた姿をみせていた。 「偽共」とは何か、私の半生記の記録の「はじめに」の画面へ ご案内です。

これが末永軍団のはしり、先生が生涯の自慢話でした


かなり昔、衆議院の選挙事務所、外は雪、なにがあったか子細は忘れたましが、先生が、ある党員と言い合いとなり、突き飛ばされたときがありました。その党員、少し、腕っ節が強い、声も末永ぐらいかな、大きいし、どなる人。 皆黙ってた、・・・・そこで、私が、「○○さん、外へ出んさい、あんた、何をしとるんなら、誰に手をだしているんか、なにしたんか、外へ出んさい、もう、この事務所にきんさんな、党を辞めろとはいえないが、この事務所は、先生が会長、私が事務長、この二人の名前で、出入り禁止とします、かえりんさい、もう、きんさんな」と大声で怒鳴っていました。多分、取っ組み合いしたら私が「こぶ出されていた」と思うが、雪の中、その人が帰るまで、大声どなり、帰ってもらいました。
それから先生は、何かあると、奥さん(非党員)に「末永くんは違うよ、同じ党員でも、信用できない者もいるが、末永くんは信用していいよ」と述べていたそうです。
後日談、「末永も大きい声して、○○さんに出て行けなどと言い、党をやめるように言って、指導に問題もある」と、自己批判まではしませんでしたが、「批判」はされましたとさ・・・。末永は「批判の対象にならない」との旨言った党員も何人か、いたとさ・・・、このあたりが、「軍団」の走りかな・・・。

★大林秀弥先生と私の大きな勲章、誉めてやりたい出来事、始めて「軍団」と言われました。

−津山市で「ヒロシマ・ナガサキアピール署名人口過半数達成」は、1989年1月でした。この祝賀会で始めて「末永軍団はすごい」と先生が喜ばれました。そして、その力は、美作地方、1市31町村「全ての自治体で 広島・長崎アピール署名人口過半数の達成 」へ道をひらきました−月一回つづけています、署名の数字の変化表はここからおいで下さい。

◆先生と私の合作といわれる「ヒロシマ・ナガサキアピール署名は、津山市内だけでも、@街頭署名A戸別訪問B団体回りC町内会まわりなど考えられるだけの全ての行動を行いました。そして、美作地区31自治体人口過半数達へその教訓をくみ上げました。この成果は、今でも「6・9行動」(月一回)へ引き継がれています。月に一回動きます。左の写真は、「6・9行動」150回達成記念の祝賀会の風景です。150回すべてに参加した大林先生に感謝状と記念品を贈りました。

この人の署名スタイルと署名方法は「すごい」の一言、絶対に「寄ってきてくれる人だけに書いてもらう」という式です。先生の方から「お願いします」と声をかけることは聞いたことがありません、ニコニコとして、寄ってくる人を待つ、書いてくれる人は書いてくれるよ、というスタイルに徹していました。ですから、歩いている人を呼び止めて書いてもらう人が30人ならば、先生は「とても真似はできないよ、私は3人だよ」と笑っていました。でも、台風のとき、電話で「休みますか」と聞きますと、署名活動は一人でも出来るよ、と言われ、しかたなく?台風の日にも「6.9」をしました、それほどまでに「真面目」でした、この先生が津山の平和運動の草分けです・・・。

★津山市で1989年1月に「ヒロシマ・ナガサキアピール署名人口過半数達成」しましたが、達成までの歩を紹介しますと、大林先生がそこにおりました、のが第1です、そして、第2は末永が企画マンとして実戦家としてそこに存在していました、第3は、末永軍団が、大林・末永の実践と一緒に動きました。

この組み合わせで、何回あるいたことか、街頭にたったことか、幾つの団体を、町内会を訪問したことか、いつも、笑顔の大林先生が、にらみを効かせていました、から、私たちが動いたのです、段取りもしました。やった、と実感しました。

★この時に、大林先生が「末永君の力だよ、すごいよ、できるとは思わなかった、末永軍団だね、やったよ、これで僕も県の平和委員会でも、文句の一つでもいえるよ」という意味のことを述べていました。これからが「軍団」という言葉を使うようになっていきます。

人口過半数の達成へ、これだけの署名の方法を考え、具体化させて達成しました。


その1、勲章の一つ、20年以上になる月に一回の「6・9行動」による街頭署名活動


その2、市内の党支部や赤旗読者への署名の協力依頼と民主団体構成委員自身の署名と署名集め

その3、町内会への依頼→この段取りはすごかった。5つ〜15程度の町内会を○○連合町内支部と称していますが、支部子度に個数や会長を調べて、お願い分と署名用紙を渡してお願い、230町内をこまめに依頼してまわりました。役員会に説明に行ったところもあります。

その4、その他、企業、市民団体へ持参や郵送でお願い。

その5、すごかったの極めつけ、協力いただけない町内、地域へ個別訪問→訪問する日をあらかじめ設定し、2日〜3日前に、夜、署名用紙と「○日何時頃にきます、家族ぐるみで署名の協力を」と大林先生と私の名前入り依頼手紙をつけて個別にポストへ投函。(この作業は大林先生の指揮下「末永軍団」4人〜5人程度で毎回行う)
そして、予告した日に市内の美作原水協加盟団体構成員を最大動員、多いときは50人ぐらいで個別訪問しました。なかには「ルスをしますが」と但し書きをして署名を貼り付けてくれるお宅もあり大感激でした。これを、月に一回か二回、繰り返し。繰り返しやってきました、足と頭脳で出来上がった津山の人口過半数達成の快挙でした。

1992年の夏

1992年の夏、広島で行われた世界大会で、美作31の自治体(1市20町10村)のすべての自治体で「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名人口過半数達成の活動を部代の上から、末永弘之が美作原水協の代表理事の一人として、過半数署名の先頭に立ち、具体的な段取りをし、末永軍団と一緒に行動してきた教訓を述べさせてもらいました。

この年は、たしか美作地域から真庭郡と津山を中心としたバス二台でヒロシマへ参加しました。総勢70人前後かな、その中で「末永軍団」約10人近くも参加、壇上にも一緒に上がりました。1921年大会から一ヵ年で8つの自治体が人口過半数の達成となり、すべての自治体で達成が出来たわけです。


最後、行政から町内組織へ、私たちからも町内会や企業や各種団体へ一定の量をとってくださるお願いにも歩きました。

あんたとこは良く飲み食いするなァーの物語


日本共産党員は不屈です、自弁で、飲まず食わずでも頑張ります。
★末永軍団は、「アピール署名のお願いのチラシ配布」が終わりますと、夕食会や居酒屋などによく行きました。国政でも地方選でも、支部が、あるいは選対が後援会が、ビラ配布、統一行動、ビラ貼り、なにやっても、末永事務所に皆が寄って行動するときは、暖かいお茶、コーヒー、うどん、カレー、そうめん、おでん、絶対に何かを食べて帰ってもらいます。
★そのために、いつでも2名程度「台所担当」を残してでも、食べてもらいます、夜遅いときは、自動車で人を集めて、一杯飲んでもらってかえってもらいます、おでんが残れば、必ず皆でわけて持ち帰ります、いかに党員だからといって、お茶の一杯もださない、しない、ごはんもない、こんな人と人とのつながり、ましてや、党のために、市議選、末永のために動いてくれる人たち、ビラ配ってもらって、ご苦労さんと言葉だけで返すことはしません、これが末永軍団の一つの特徴です。
★また、行ってみたいと、行ってみようか、と思ってくれる、そんな事務所にシタイトノ願い・・・。えびで鯛をつるのでもないと思いますが、ことあるごとに、食べて、飲んで、話し合って、元気をだして・・。
自弁で選挙するのが日本共産党員の立派な姿です、が、です。私たちは、よく食べて、飲んで、雑談に花を咲かせ、明日へのエネルギーにしてきたのは事実です、そして、拡大統一行動がうまくいかないとき、毎日結集の連続が続くとき・・・指導部から「あんたとこは、よく飲むなァー、」といわれに至って、それが、一杯のみ機会をつくり、また、批判され・・・・、でも、頑張ったのは、陰になり、日向にナリ、頑張って、津山を、美作を、ここまで持ってきたという、末永軍団は、そんな自負をしています。

1月20日「わが生涯と学習の記録」出版記念祝賀会

オッ、「末永軍団も来てくれたかね・・・」と微笑み
−でも、極少ない人でしたが、先生の思わず出たこの言葉に「眉間にしわが」・・・−
大林秀弥先生の自叙伝、「半生記の記録・我が生涯と学習の記録」が出版され、日本共産党美作地区委員会の事務所で祝賀会が行われました。私たちが特別に遅れて参加した訳ではありませんでしたが、私と数人の「さくら会館関係者」が事務所に顔をみせた瞬間に、大林先生が、といも嬉しそうに、得意のポーズで「オッ、末永軍団も来てくれたかね」と思わず言葉をはかれました、まさに、はかれたという感じでした。


この時、先生は病魔におそわれていました、「さくら介護センター」が出入りし始めていました。多分、先生は、万感の思いがあっての「言葉が出た」と思いますが、この言葉をはかれた瞬間、先生の隣で「世話をしていたある人物」と後、ふたりほどの顔が「歪み」ました、忘れられない何とも言いがたい顔をして「眉間にもしわを寄せる」というものでした。私たちの「顔をまともに見る」こともしませんでした。祝賀会の最後まで・・・・・。

津山市の「平和都市宣言記念碑」です。平和都市宣言は、大林先生が呼びかけ人、私が市議会議長の時代で、とても苦労して「宣言の採択」をしました。そして、津山原爆被災者の会の会長(木原徳二さん)を会長として、津山市民平和祭実行委員会も組織しました。今でもこの平和祭は津山市の平和行政として取り組まれています。
先生の自叙伝にもこの物語は書かれています。

★この祝賀会の前に「二つの出来ごと」があります。

@先生の下のものが大丈夫のようにヘルパーの指導で「おしめ」の手当てをしっかりとする相談を何回かしました、そして、先生に、当日は「私たちが迎えに来ますから」と申し上げましたら、先生は「実は、全解連の岡山県連関係者に本の寄贈をするために○○さんに本を岡山に持っていってもらう事を頼んだら、ついでに、その人が迎えに来てやるというので、お願いをしたよ・・・わるいね・・・」との話でした。そこで、私たちは、その時間の直前に「おしめ交換」をしっかりとして、出かけられるように身支度だけお手伝いをして、すぐ帰って来ました。


 Aもう一つは、深刻でした、亡くなる直前に、私に最後の依頼をしたのも、このことでした。「末永君に来てもらいたい、どうしても相談したい」とヘルパーを通じての伝言有り、行って見ますと「○○と△△に渡している自叙伝の本の売り上げだけどね・・・・、これと、あれと、これは、私から寄贈、こちらは何部預けている・・・・」と子細の表をみせてくれて、配本数と金額、すでに入金額が書かれていました。そして、どことどこはねぇー、どうも、ハッキリとしないんだよ、地区党には売り上げの○○%を「寄付金扱いしてくれ」ともうしているからね・・・、この整理が中々してくれなくてねえー、・・・・こうなったら君しか整理をまかせられないと思うんだ・・・美作民研の人が配本してくれたからね・・・信用できるのは・・・と細かな指示をされました・・・・、いい加減に聞くわけにもいかず、さりとて、相槌を打つわけにもいかず・・・・、困りました。しかし、「わかった、先生、いい具合に言うておく、心配しなさんな・・・」と言ってかえりました。その表は、亡くなるまで私が預かっていましたが・・・・最後、カンに入れました。でも、申し出だけは本人に口頭で伝えました・・・。 ★末永軍団が来てくれたか・・・と思わず口にした言葉を聞いた瞬間に、私が頭に浮かんだ二つの出来事でした、これは、誰も知らない話です。もちろん、個々には、最後までの流れと関連はしりませんが、一つ、一つの出来事には、何人かの人たちが拘わっています、それを繋ぐ線、糸は、私の心の中にしまっていました、それをHP画面をかりて再現してみました。
 

★最後に選んでくれたのも「末永軍団」でした

−津山医療生協など大林先生が関係してきた民主的団体の若干の遍歴−

1、先生が長い間携わってきた「津山医療生協」運動、私は「設立総会」の議長役をしおに、ほぼ「津山の医療生協活動」から足を洗いました。→当時のある人物をめぐる扱いで感情的対立が原因、この人物、最後は医療生協や民主商工会を食い物にした、その昔、統一しておった「部落解放同盟」の専従役員をしていた当時、金銭のルーズさが表面化して、役員をやめてもらった人←


2、その後、この人の民主団体攻撃、私物化論などで、津山の民主運動が大きく揺れ動いた時期もあり、民主商工会は、表面的には、今でも、同じ名前の団体が二つある。おかげて「この人が原因でゆれなかった」のは全解連ぐらいのものかもしれない。
3、大林先生は、一定の整理後、常務理事として「出資」も多額のものをされ、頑張ってこられた、が、内部抗争が持ち上がり、一定の見通しがたつなか、年も関係して「引退」の道を探された、そして、極、わずかなものを残して「出資金の引き上げ措置」までされた、コレニハ、びっくりした。
4、それでも先生は治療は、津山医療生協を利用されていた。

5、介護保険のスタートにあわせて「さくら会館」(全解連津山市協議会)が「行政補助金からの脱皮の切り札」として「さくら介護センター」(ケア計画策定事業所・ヘルパー派遣事業所)を立ち上げた。
6、当然のこことして、津山医療生協も「ケア計画策定・ヘルパー派遣」をたちあげ、加えて「訪問看護ステーション」を「介護保険制度」に参入するように改善を図った。
7、関係者の中から、「さくらは素人、何が出来るか、私らがプロ」との批判の中、色々と「感情のもつれ」は生じたようだが、津山医療生協の組合員やその周辺に「全解連活動」を通じて、活動家になった人たちが多くあるが、私たちは(末永軍団)は、あえて、そこに関係している人たちには「さくら介護事業所の利用の勧誘」はしないことを決定していた。そんなことは、常識と考え、津山医療生協関係者には、説明も、方針の協議もしていない。それでも2〜3人は「利用者の奪い合い」の様相で、批判を受けた。
8、それでも、未来のために、誤解がないように書き下ろしておくが、介護保険がはじまる2年前まで「全解連津山市協議会の専従役員をしていた婦人」が、当然、家族で、医療生協の組合員となり、診察などは受けていた。この家族が「さくら介護事業所にケア計画策定とヘルパー派遣の依頼が来た」のである。
 私のところのお客を「さくらが取った、素人ばかりのに、困るであろう」との声が聞こえてきた、さすがに、このときは、その利用者が現役の時から「いつまでも同和・部落ではない運動」を手がけていた、介護センターも作る協議に参加してきた、何よりも、全解連の運動を通じて、医療生協の組合員になったもの、医療生協活動で「活動家として生まれた者ではない」ことを理解してもらう立場だけは鮮明にしたことがある程度で、後は、何も「さくらの側」から、物申したことはない。

9、何人かの活動家が、年老いたら「どちらに頼むか」で迷っていると、噂を聞くときがある、なるほど、その点では「商売敵」の様相があるのか、と始めて気がついた次第である。そういえば、新しい理事長が「さくらさんは、ヘルパーがあるからかどうか知らないが・・・」との発言をされるのを聞いたことがある・・・と「なるほど、そんな目が、そんな話が、何所かで出されているのか・・・・と、妙な点で納得したことがある。
10、こんな中、大林秀弥先生が「風邪で夫婦とも寝込まれた」との話がつたわり、お見舞いに行き、失礼ながら「ひどい家の状態を見た」ことがある。

君とこに頼むよ、すべてを任せるのは君、よろしく

そして、しばらくして、先生が、本当に弱弱しい声で「末永君、もう駄目だ、色々と考えたが、一を頼んで、全てが分かるのは、君とこしかない、良く僕には分かっている、動けない、後のことは頼む」と電話してきた、「びっくり」もしたが率直に先生の気持ちが全て伝わってきた、とても複雑な感情の中、何かが、私を起こしたのは事実でした。


直ちに、「さくら会館」の専従役員と「さくら介護センター専従」を集めて、大林先生への「特別介護方針」をボランティアを含めて、私が、指示とお願いをして組んだ、その日から、別の意味で「末永軍団」と「大林秀弥先生の付き合い」が生まれるのである。
よくぞ、全解連津山市協議会が、介護事業所の資格をもち、専従が私も含めて2級のヘルパー資格を取っていたものだ、としみじみと感じさせられた、伊達や酔狂ではない、この運動の真価が問われた瞬間でした。
11、玄関にしかなかった電話を「部屋に切り替え」装置を購入、「冷蔵庫が一杯で入らない」のを整理し、玄関を綺麗にし、部屋を暖める材料を仕入れ、二人の部屋を明るくし、洗濯をし、久しぶりに風呂にはいってもらい、朝、昼、夜と、何回も、ヘルパー以外にも出かけた、正月を挟んで、ここまで書くべきではないが、あえて書いておく「末永さん、お正月の三が日は、息子夫婦と契約をしたので、休んでください・・・」涙しながら言われた、奥さんの実に寂しそうな顔が瞼から消えない、こちらももらい泣き、・・・「何があろうとも、他人(ヘルパー)が、土足で家の中の実情まで踏み込むな」と説いてきた、息子夫婦については、無頓着、「利用者(先生夫婦)の要望だけを聞け」と諭してきた、私の「ヘルパー哲学」が正しいと、このときは、本当に思ったものである。
★何度か、ボランティアやヘルパー活動で「息子さん夫婦が家の前に住んでいるんでしょう・・・」と問いかけてきたが、「それぞれの事情であり、頼まれたことだけ、私がお願いしたことだけを頭に描いてほしい」と繰り返し、繰り返し、「ヘルパー哲学」を説いていた矢先である。
今でも、奥さんの介護で「さくら」がいってるが、大林先生が「末永軍団」を最後に選んだのは、正しいと自負している、亡くなって一年、奥さんが「入院」、本当に家の中は大変でした、奥さんの兄弟や息子夫婦がおられるなか、「家の中の掃除・片付け」と「先生の研究かとしての資料の整理」を、奥さんもすべて私に依頼してこられた、少しだけ、行き違いがあったが、それでも、期待には応えられたと感じている。
まるまる3日間、軽トラ20台以上にわたるゴミ、雑誌類の焼却、古い家具など家の内外を綺麗に整頓し、奥さんの退院を迎えた、奥さんが「私の家ではないように綺麗になった、大林は右のものを左にも本当にしなかったから、全部私がしていた、玄関にあった古い置物、壊れた庭の機材、倉庫の中の痛んだ漬物や食べかす、本当に大変たったでしょう、ありがとうございます、」と、ここでも、末永さんが頼りだ、といつも言っていた主人の言葉がよく分かります、と誉めてくださった、いま、さくら介護センターでケア計画をたてて普通のお付き合いである。でも、5月12日の記念集会には、思いもかけない「多額の寄付」をヘルパーを通じて頂いた、「ごきげんいかが600号記念懇親会」にも金一封が届けられた、こんなことがあると、本当に、嬉しい限りの「末永軍団」である。

いま、先生の研究の本、専門書、共産党宣言の「英語版原本」など数多くの書庫を、津山図書館に寄付をし、それぞれの活動家にわけてほしいと依頼された仕事を残している、奥さんの前から、すべてを無くしてしまうのが気がかりであるから、もちろん、図書館には連絡し、美作民主主義研究会の先生にも連絡はしているが・・・。いつ、実行できるか、決断は、遠く彼方とおもっているが、家の座敷が「抜けるほどの大量の専門書」である。
ここまでの経緯、私たちの誇り、末永軍団の誇りである

大林先生の選んだ道、末永軍団を選んだのは「正しかった」私の自負である、何から何まで、軍団の皆さんは本当によくやったと思います。

★こんな違いも生まれました、奥さんがとても気にされて「末永さんたちに甘えるな」ともいわれたと聞きました。

先生は、単車か、自転車か、バスか、が交通手段、末永区域ではなく、別の市議の地元に住まれています、もちろん、その人も含めた党の後援会の会長でした。
私が出る会議、招集する大衆運動の会議、国政や県の課関係占拠の会議、私に関係する選挙の集い、いつも参加してくださいました、1/3は私自身が車で家まで必ず送迎です、残り2/3は私が都合が悪いとき、そのときは「全解連津山市協の仲間」に頼みます、私が「何もないのに絶対に頼んだことはありません、私がいきます、」がモットーです。これが、軍団が動くし、ついてくる原因の一つ。他の人は、送迎無しだそうです。
★結果は、死と言う悲しい現実になりましたが、「さくら介護センター」が先生の「介護」に入って1年足らずの時に、大林先生の自叙伝「我が半世紀の記録」出版記念の式典が行われました。その時に、開会直前まで「会議」で遅れかけて、会場に到達した私たちの姿をみて、「おおー、末永軍団が着てくれたか・・」と目を細めて、嬉しそうに、思わず参加者皆に聞こえるように話したのが、印象深く残っています。多分、「今か、今か、顔が見えないが・・」と気をもんでまっていてくれた、・・・・、そこへ、突然現れた・・・、こんな感じでした。参加者は、大笑いでしたが・・。
★この日から、まもなく、先生はとても弱りました、そして、「末永君、病院にいくからな、後は頼むよ、君しかいないよ、家(先生の)のことも頼むよ、」と入院され、帰らぬ人となってしまいました。追悼の言葉、を紹介する予定。


◆先生の葬儀のとき 「お別れの言葉 」をいわせてもらいました。これがその全文です。

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