1923年7月15日当時は津山町でした。ここで美作水平社が創立されました。当日は、あいにくの雨でしたが美作の各地域から800人が参加したそうです。
ここまで来ました、準備に落ちはないか不安の中です。昨日夕方やっと、新しい組織の名称の最終決断が行われる
豊かなまち・人つくり津山ネットワーク
(通称 まち・人つやまネット)
高齢者と若者と、どちらかというと若者の意見を多くとりいれての案である、綺麗な、また、貴重と考える資料冊子も綴じ込みのみ残して製作・印刷の完了です。1ページ1ページ気持ちをこめてワープロ作成、誤字や脱字の点検をしてもらい修正に修正をかさねて、33ページで1000部の冊子づくりが最後の大きな仕事です。
30年近く、委員長として御世話になりました、今度は、議長という役職を用意してくれました、名称でいえば、新しい組織は、理事長職とします。ですから、委員長を勇退です。長い間御世話になりました。明日に最終決定ですが、予告も含めて案内をしておきます。でも、すべて勇退ではありません、日本共産党とほぼ同じ、不破議長に志位委員長、こんな人事図式ですかな。
委員長と党の議員との「兼職禁止」の具体化でもあります。
色んな経過と思いと考えが交差する中、この道を皆で考えました、委員長としての最後の仕事、これが、同和・部落にさようならをする大会の準備と成功です。私の半生記の記録へ、次々に思い出がよみがえる予定です。
昨日、太田真季コンサートの会場の下見、替え歌の舞台づくりに悪戦苦闘、壇上の看板は2枚、一つの新しい市民団体看板がどうなるか、ピンスポの当てる位置と公然化する瞬間の舞台企画がうまく収まるかどうか。これらをあわせて、昨夜は「集会成功へ向けて話し合いと郵送作業」などで午後10時まで全員が残業、会員の娘さんも含めて、10歳・20歳代の若者3人が受付やアピール朗読などの役割をもつために参加もしてくれ、宇那木さんもご苦労をかけました。
★末永弘之・西山正美・安藤洋子・内山龍・田中英伸・山本幸恵・山本真喜江・榎本清子
★近藤俊子・松下篤子・清水公子・川口ゆかの
★山本正市・宇那木俊介
★松下あけみ・山本加奈・近藤智美
のメンバーによる会議と最後の集会参加要請郵送の作業の夜でした。夕食は「焼きそばと回転すし」を事務所に持ち込んでの会食でした。
いまだ、新しい団体の名称決まらず、連休へ継続審査です。
☆美作民主主義研究会→79年前に「美作水平社創立」の報告と鶴山館の物語
☆弥生の里文化財と築城400年担当→備中櫓建設と津山城石垣などの物語
☆津山郷土博物館→森家先代実録集(赤穂藩所有)記載の「八幡宮とエタ村アリキ」物語
→津山藩と赤穂藩、浅野家断絶後と津山藩のつながり物語
を5月12日に話して頂き、資料作成をお願いしましたが、お一人の先生には「16時召集」が間違いである旨を連絡するも「お留守」で、連絡つかず、16時に来ていただき、大変失礼なことになりました。12日の午前中の段取りもやや完了、記念に風船をそら高くメッセージ付きで飛ばすか・・も具体化で田中英伸・山本幸恵が担当責任、午後の太田真季とのコンサート替え歌は山本正市・宇那木俊介が担当で明日ベルホーレで準備に入ります。2日の夜は「事務局と若者の打ち合わせ」で内山龍が段取り、会議召集、何人来てくれるか、ここも大きな分岐点です。
☆30日夜は、社団法人「さくら会館」後期総会、西山正美会長理事で、5月12日の取り組みのお願いをする。新しい運動団体の名称だけが決まらず・・・・、当日配布予定の「大会方針書綴り」の写真つきのところだけ「印刷」に提出、1000部の大会方針書綴り作成の準備、紙の注文も、知人が新しい「文房具店勤務」とかでセールスに来館で、記念の初注文を試しにしました。
☆会員への「太田真季と私たちの未来(たびたち)」への参加要請手紙と「大会成功のカンパ再度の要請手紙」→田中英伸、榎本清子の担当で約400人へ手紙発送準備、5月1日投函予定
☆太田真季と私たちの未来(たびだち)のチラシを、しんぶん赤旗に織り込み依頼の準備→山本真喜江担当で、日刊紙2回分と日曜版5月4日付け折込準備完了、皆なかなか大変です。
ほぼ基本の流れは決定、しかし、どんな名前の市民団体とするか、名は体を現すとか、下段の方から「悩み多し」の記録が続くと思います(21日朝書き込む)
☆3月29日からつくり始めたコーナーです。5月12日まで仕上げて生きます。ここの画面は、上から下へ、下へと作成日程を組んでいます。
私たちは、この日を期して「部落解放運動」に終止符を打ちます。水平社創立以来80年の歴史、戦山市で「部落解放運動」が再建されて50年、同和対策と称する特別措置法が制定されて33年、色んなことがありましたが、「いつまでも同和・部落ではない」の願いから、そして、国策として「平成13年3月31日をもって、特別措置をすべて終了する、地区とか地区の人とかを対象とする特別対策を終わります。同和地区としての線引きもなくなります」との方針が決定されたから、幾分かの矛盾やある意味での差別事象も残されているのは事実ですが、「同和・部落という名の付く特別の扱い」がある限り、部落問題は解決しない、と考えるからです。若干の「差別」や「矛盾」があろうとも、今、同和事業や同和教育や部落解放運動や特別の扱いがあることよりも、無いこと(普通の社会)の方が、より立派であり、より早く確実に「部落問題が解決される」と信じるからです。
未来へのロマン託して80年の歴史を綴じます
あえて、私たちは、5月12日に、部落解放運動を綴じます、閉じるのではありません、未来の研究家のために、歴史学のために、虐げられた人々のけなげな生き様が、やがて、歴史の中でしか語られないものになる、今も生きているとか、重大な差別がある、とかがいわれないで、完全に「過去の物語へ」過ぎた、古き悪しき習慣としてのみ語られる時代がくる、そして、単に歴史検索されるようになる、そのために綴じて、まっています。今の世に生きる、私たちの未来へのロマンです。
午前10時つやまの歴史を知る懇話会と昼食会です、参加費2000円の予定、9時50分に鶴山公園入り口集合してください。
5月12日ベルホーレ13時集合、私たちの橋渡(たびたち)コンサート
平和・民主主義・人権尊重・生活向上へ、私たちは新しい市民運動団体へ移行します。そこは、私たちが夢に見た、同和・部落のない、新しい社会です、
5月12日津山で新しい扉が開かれます
1 人と人との平等を 大正時代の
あのときに きびしいとき 声掛け合って 歩きまわった君 明日をめざし 明日をめざし 人に光あれ |
1922年(大正12年)3月3日全国水平社
1923年(大正13年)7月5日美作水平社 が創立されました。人の世に熱あれ、 人間に光あれ と歌われ、人間の尊厳 求めた運動が始まりました。 |
2 泣いてるあの娘を 助け出し
遅れた地域を引き上げて なくせるはず なくせるはず 特別の対策で- 組織をつくり 法をつくり 明日を信じたさぁ- | 戦前戦後を通じて、差別が厳しかった頃、差別で泣かされることのないように、集団で「確認・糾弾」という手段で「差別することの間違いさ」を諭して来た運動でした。時代が一気に流れ、戦後の解放運動の再開、同和対策事業特別措置法制定への運動、「人が住むに値しない」とまでいわれた住環境の悪さ、これを特別措置で改善してきました、そのことで、差別がなくなると信じて・・・。 |
3 ある日言われた人がいる
糾弾会は拷問だ やりすぎてる 行き過ぎている 黙って見てる君がいた そこを変えたい そこ-をかえたい 皆で(苦しんださぁ-)かえるのさぁ- | 一部とは言え、特別対策を「逆手」に取って「自分に気に入らないことはすべて差別」と称して、相手を威圧し、黙らせ、同和事業を「食い物にする」層や団体が生まれてきました。そして、国民の中に「部落タブー」が生まれ、「怖いもの、恐ろしいもの」の代名詞に部落解放運動団体が評価それるようにもなりました。一方では、そんなことではいけない、真の民主運動とは何か、部落解放運動のどこかが「違っている、勘違いがある」と真剣に悩んで、暗中模索の時代へ入った人々もありました。 |
4 震える気持ちで 開いたよ
本音で語るシンポジウム そして きっと そしてきっと 芽生えてくるだろう 新たな時 あらたなとき あしたをひらいたさぁ- | 1981年7月13日-本音で語る-同和問題シンポジウムが開催されました。部落タブーをなくしたい、それが部落問題解決への謎解き、運動団体が、地区の側が、差別であっても「黙って聞く」という世にも珍しい企画でした。言葉遣いが粗暴、確認会は拷問だと糾弾されたその人から言葉を投げ返されました、黙って聴きました・・・・、終わった瞬間に、その人が駆け寄り涙しながら握手してくれました、あの手の温もりが、今をつくりました、画期的な集会になりました。 |
5 普通になりたい 私たち
若い僕らは 夢がある 子どものため 孫のため 夢を信じて あしたがある 未来がひらけるよぉ- | 子どもたちや孫たちに、同和という名の付く地域がある社会ではなく、普通の社会を残してやりたい、本音シンポから10数年たって、私たちが到達した、部落解放運動の貴重です。そして、いつまでも同和・部落ではない、と頑なに信じて、全国へ夢発信してきました。 |
6 新たな出会い 夢発信
未来をみつめ 生きていく ここまで来た ここまで来た ちからあわせたよ 夢がかなうときがきたよ 明日がある 明日がある 明日があ-ある-さ あしたがあ-.--る--さぁ- | 2002年3月末で、同和対策としての特別措置を終結し、同和地区とか地区の人とか、同和地区の線引きもなくなります。
国が画期的な方針を出しました、ある意味では大きな課題や残務的な問題や、幾分かの差別は残っています、しかし、私たちが10数年訴え続けた「特別の対策がある限り、差別はなくならない」の気持ちが現実のものになった、と心からの歓迎です。地方による取り組みの違い、人権への衣替え、完全にゼロにならない、色々と弱さがあっても、同和をゼロへ、夢の発信第一歩です・・・。 |
上記「明日があるさ」の歌と市民集会のお誘いの「テープ」を沢山つくり色んな人に送り始めました。それは、多くの人に「ムード」を作ってほしいから、当日、壇上に上がって太田真季さんと一緒に歌ってほしいから、津山の「文化」の出来栄えを味わってほしいから・・・。
このテープ録音取りに、無茶に御世話になった人たちがおります、無料の勤労奉仕、仕事をしながら、録音の管理、機械がする、といいましても並大抵では沢山の録音(片面15分)のテープ録音とりはできません、ご迷惑をおかけしました。この画面、その人に届くかどうか、聞きますと、本人は「あまりパソコンはしない」とのこと、奥さんの方が得意とか聞いたことがありますが、改まりまして「ご迷惑をかけました」とお礼とお詫びを申し上げます。徳島県、滋賀県、和歌山県、そして、広島県へ、全国へ、津山市内へ、美作地方へ、より沢山の参加のお願いと歌声を届けます。
4月4日の夜、滋賀県甲西町の友より電話
「11日に長島愛生園(ハンセン病)へ、そして、12日は津山の記念集会へ参加、人権ツァーを企画して呼びかけをはじめた、マイクロバスで参加したい、「同和の終結をめざす町民会議として正式に取り上げていきたい」との旨でした。とても元気がでる電話でした、全国へ゛夢発信゛の意味合い、本当にありがたいことだとしみじみと痛み入っています。下記はメールの転送です。
★部落解放運動の80年の歴史を綴じます(閉じるではない)各支部の代議員による津山市協議会50回記念大会を文化センターで開催して「新しい時代の到来を信じて」解散式とします。
★つやましの歴史を学ぶ(鶴山公園と鶴山館)
その1→16007年に森忠政によって築城された津山城(鶴山城)、森家は○代で廃藩、そして、松平藩へ、森家の古文書などは、忠臣蔵で名高い赤穂へ、赤穂で書かれた「森家実録集」に書かれた、森忠政と築城とエタ物語、ここに書かれているのは何か、何故、実録集に書かれたのかを探ります。
その2→2007年が築城400年です。記念事業として「備中櫓」建設中(工事費約2億円)です。津山城に何故「備中」の名が、備中高梁藩と津山藩、そして、大石蔵之助と備中高梁の繋がりと、赤穂と津山と忠臣蔵と津山藩浪人と、赤穂藩士、津山城の「石垣」などの歴史を学びます。
その3→大正12年3月3日京都岡崎公会堂で全国水平社設立
大正13年7月5日津山町鶴山館で美作水平社設立
美作水平社設立の歴史と鶴山館の歴史を検索、美作水平社創立の地、館にて、80年の運動を懐かしみ、運動・行政・教育で御世話になった人々に一同に介してもらいます。来年が美作水平社創立80周年です、ひとつの区切り、美作地域全体が終結へ、夢を語りたいと思います。
その4→備中櫓建設現場で、鶴山城の特徴や、備中櫓の歴史などを学びます。
以上の4つの「歴史検索のたび」は、美作民主主義研究会、郷土博物館、弥生の里文化財センター、築城400年記念事業推進室の皆さんに「講師」など御世話になる予定です。
《備中櫓の完成予想と在りし日鶴山城天守閣模型の写真資料》
全解連津山市協議会を綴じる方向へ、最後の大詰め、執行委員会、市協委員会、支部会議、書記局会議、女性部を含めた検討会議など「会議」の繰り返し、党の方針として「大衆団体の責任者と議員と兼職はしない」の方針、私も数年間「無理をしてきた」関係もあり、委員長は勇退の方向で検討を重ねてきた、これもしんどい原因、そして、新しい運動団体の名称が決まらない、スッキリとした名が浮かばないのである。さて、さて、どうするか、今日、市協委員会と女性部委員会の合同会議である、ほぼ、最終的な方向を作り出す必要がある。委員長としての最後の勤め、責任でもある。
・新たな地域づくり津山連絡会 ・すみよい地域づくりをめざす津山みんなの会
・新しい地域をつくる会 ・地方自治憲章 住民運動 ・まちづくり基本条例
・○○運動をすすめる会 ・人間の尊厳 人類普遍の原理 人権(友愛)
・人権を豊かに発展させる ・憲法をいかす連絡会 ・国民主権をめざす
・花開く ・すみ続けられる地域、まち
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