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2011年2月21日議会運営委員会の日に、議会改革案を申し入れ
―日本共産党津山市議団―が議長室と各会派へ申し入れ

   
平成23年2月21日

津山市議会 議長 森下寛明 様
津山市議会 各会派代表  様

              日本共産党津山市議会議員団
末永 弘之 印略
久永 良一 印略

市民の期待に応え、役に立つ議会をめざして―議会改革へ日本共産党の提案

毎日の活動ご苦労様です。
 さて、早速ですが、昨年「市議会のあり方」につきまして、色々と論議をかさね、一定の結論も出され、議員定数を4人削減、グリーン車の廃止、旅費の削減などを確定させているところですが、私たちは、下記事項をすみやかに全議員の一致した意見として確認し、来期の市議会から適応する事を申し入れるものです。その点では、来年度当初予算の審議結果も含めての検討をお願いします。記

1、市民の期待に応える議会へ、― 当面する「議会改革」への提案

@   市議会の役割である、市政へのチェック機能を強める運営をめざし、再質問の回数を時間内であれば制限無しとするなどに改める。また、本会議討論を「対面式」及び「一問一答方式」に改善すること。

A   市議会のホームページでの「公開」をつよめ、本会議議事録の検索システムを「動画」方式に改めること。

B   当局と議会の「活発な論議」を保障し、質問時間(一人30分)を15分以上延長すること。

また、市長部局の「反問権」をつくり、議員からの必要な答弁時間は、現在の当局答弁時間と同じく「無制限」とすることを前提とする。

C   議会(議員)と住民との「定期的な懇談会」を市議会全体で行う。(地域別・常任委員会別など)

2、現行の議員報酬を「一定額カット」する。

 市民の意見も聞き(アンケートなど)ながら、誰もが、議会活動に専念でき、市民感覚に合った「報酬」を真摯に検討する。

(一つの案→議員報酬以外に、収入がある場合は、それらを考慮して額を定める、とか、正副議長のプラス分を、どうするかの是非論・額の再検討など)

さらに、期末手当の「0.15のプラス」を無くする。

3、一部事務組合議会、行政審議委員など津山市議会議員を選出母体とする各種会議参加の費用弁 償を無くする。東部衛生処理組合及び国保運営協議会は報酬を無くする。

4、    議員の視察旅費の「減額」を行い、合わせて、議員視察に市長部局職員の参加を無くする。

加えて、各組合議会の予算にある「議会旅費」を減額する。

5、  特別委員会は原則無くして、真に必要な場合に限り設置し、旅費などの予算計上は原則としてしない。

≪追伸≫議員には、退職金が無いこと、年金については、来期6月から廃止されることなど議員年金の実態を広く市民に知らせる。

  また、津山市議会は、費用弁償、旅費、弁当などの費用はゼロであることも、広く市民に知らせること。

  これらの実施のために、4月に「市議会だより」の臨時号の発刊を検討する。

この申し入れは、21日の議会運営委員会に示されて、「大切な問題提起であり、各会派で検討してください」という、議会運営委員長の言葉があり、会派へ「持ち帰り協議」という感じになりましたが、各会派・議員に、どのように受け止められて、どのようにしていくのか、大きく問われるように、市民の皆さんの声も大きくしてもらうなど、頑張っていきたいと思います。

―2010年8月10日母の死に寄せて・16日記入―
来春の市議選へ、10期目を振り返って考える


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3年と8カ月前(2007年・前回市議選)の様子。
★2007年4月23日が前回の市議選投票日でした。やっとの思いで「10期目」へ這い上がりました。
写真は、前回選挙の告示の日のものです。

前回市議選は、日本共産党と末永には厳しい選挙でした。

★合併をして、初めて全市一区の選挙、私の生活相談区域として加茂・阿波地区がプラスされ、すくなくとも、この地域の「上積み」選挙では・・・と、思って選挙の準備をしましたが・・・・
★津山市では、「末永さえいなかったら楽になる、あれが議会におるから困る」という人達の「なんとしても末永落としの布陣」が敷かれた中での選挙戦でした。これをのりこえた1,428票でした。党や後援会のみなさんのおかげです、ご支援いただきありがとうございました。
しかし、日本共産党は、現職を一人落してしまい、二人になりました。私たちの「力不足」です。そして、私も、当選はしましたが、四年前と比較しますと、81票減りました・・・・・率直にいいまして、「何で・・・」という感が強い結果でした…・合併して、票が減る・・・・アルネ・リコール・市長選挙・・・・・票が減った・・・・・・
たかが81票、されど81票という選挙でした。・・・・・そして、今回、来春の4月への選挙準備へ入る訳ですが、なかなかしんどい思いがしています、以下の理由です・・・

あれから、三年と数カ月が経過・・・・、何が起こったのか、こんな「流れ」は珍しい出来事

2007年11月に養父の泉が、2009年8月に養母の知恵子が、そして、2010年8月に実母の品代が相次いで亡くなりました。


★葬儀などは宗派・寺・お坊さんによりかなり違いがあるようですが、我が家は「浄土真宗」です、「満中陰」までこのような形で中陰壇といわれる所に遺骨を安置しておきます。

まずは、末永と川元の関係から・・・・・


★2010年8月10日実母の川元品代死亡・・・・・末永が喪主・・・?・・・どうして・・・こんな問いかけをよくされました。考えてみますと、そうですよね、私の頭の中では、「なんでもないこと」ですが、普通の感覚ですと、?です、最初に末永と川元の説明から・・・・

@品代は、日上144(現在私が住む家・品代が息を引き取った家)で生まれました。末永の5女でした。

A品代の姉が、大原町の川元へ嫁ぎました、その時、相手の人に弟があり、こちらも品代が妹として結婚式に参加して、弟と妹が「結婚」ということになったようです。

B寛(実父)と品代は結婚して、神戸の方で生活、兄を生み、三年後に私(弘之)を身ごもり、父が病気でたおれ、家族で大原へ帰宅・・・・・

C父が昭和18年5月に死亡・・・・そして、品代は、長男をつれて、大きなお腹をして(と思いますが・・)日上で私をお産する目的だけで帰る。

D昭和18年7月25日に、私(弘之が生まれる)しばらくは日上で品代、兄・弘之で、当時は、品代の両親、弟、甥っ子(品代の姉の子)で、かなり大きい農家、お酒屋かなにか小さい商いもあったようですが・・・そこで生活をするようになりました。

E昭和19年10月に品代の父「和田蔵」が死亡、引き続いて、母の「ふよ」が21年1月に亡くなる、という事態に遭遇しています。

Fこの時点で、品代の弟(泉)が末永では、ただ一人の男の子でしたから、後をとり、品代は大原にかえるべき立場でしたが、泉が病弱、仕事が出来ない、都会に出たがっていた、などがあったようです。


※泉の作品「谷崎潤一郎先生覚え書き」(中央公論社発行)によると「・・前略・終戦で復員後、私は、昭和22年1月から昭和26年発病して京都をはなれるまで、谷崎先生の秘書をしていた。当時、私は京都で、姉が小さな出版社(国際女性社)をはじめていた、そのお手伝いをしていたのである。」と回顧している。
このことからもわかるように、泉(私の養父)は、父母の死を境にして、都会暮らしに入っている。
G結果として、品代が、川元の性のままに、末永の家で、私らを育て、再婚も無く、暮らしていました。そして、私=弘之が、結婚という一つの節目を迎えて、「末永の本家を川元のままに継ぐことはやめよう」ということになり、私が、品代の弟の末永泉・知恵子(東京都武蔵村山市に居住)の席に入れて、末永の性にかわりました。しかし、川元品代は、そのままに、私と生涯「同居」の生活でした。特に変わったと言う意識は無かったのですが、おもしろい体験をしました。
※川元 弘之 昭和18年8月10日生まれ 本籍 岡山県英田郡大原町中町513
※末永 弘之 昭和18年7月23日生まれ 本籍 岡山県津山市日上144
となりました、本籍の変化は同然としても、生年月日までかわりました、これには驚きました、かたちだけみますと、別々の人間か、と思える感じがしますが。。。正真正銘同じ人間なんですよ、二つとも私です。

2007(平成19)年夏の出来事

これにはかなり「驚き・腹が立ち」ました。三年前の7月の末頃から「内山龍の会計処理を巡る不祥事」が発覚、自宅謹慎を申し渡して調査に入る、お盆休み、米子で孫たちと海水浴中に・・・・「龍が緊急に病院に運ばれて入院」の連絡があり急きょ帰宅・・・・・・「金銭の流れ」を調査して、その実態が、ほぼわかり、組織的な処分など検討している最中の出来事でした・・・・
2007年11月14日養父・泉が東京で亡くなる
※9月14日とおもいますが、東京の養父・泉が「意識不明・入院」の連絡あり・・・・この時から、おおむね週に一回の東京行きが始まる・・・・・そして、11月に亡くなりました。
※亡くなる一週間前に、養母・知恵子が「看病疲れ」などて入院、養母が意識のないままに「葬儀」を私の手でおこなう。
※そして、養母の体調も、やや、回復、内科と精神科の治療をうけつつ、岡山の病院に連れて帰り、そして、津山の施設へと目まぐるしく養母の病気の状態に会わせて、病院、施設を点々として、最後は、津山のある「ケアハウス」でおせわになっていました。ケアハウスとは簡単に定義すると「60才以上の自立した方を対象とした、食事・入浴付きの老人マンションです」と言われています。
2009年8月4日養母・知恵子が熱海で亡くなる。
※昨年の暑い夏、突然、知恵子が施設からいなくなり、警察や消防にお世話になり周辺を探索してもらっている時に、熱海警察から、「熱海でなくなっている」との連絡・・・熱海と津山の往復で、葬儀の準備などバタバタとしました。
そして、2010年8月10日に実母・品代が亡くなる
※三年半の間に、三人の肉親を失うと言う結果になりました。
※品代は、介護保険がはじまる頃から、認知がではじめて、家庭で介護していましたが、『徘徊』がはじまり、有る年の「正月・雪の日」に、早朝外出、朝起きてみたら、ベットがから、びっくりして雪の中を一時間程度さがして、ある所の倉庫にうずくまっている母を見つけて、担いで帰りました・・・・・この時には、さすが涙がでましたね・・・・そして、全ての部屋に、「中鍵」を掛ける覚悟をして、母の部屋を「監禁状態」にしてしまいました・・・世に言う「虐待」という現象だろうとおもいますが・・・・自宅介護を中心として、鏡野病院や石川病院など入退院をくりかえしでした時期でもありました・・・・(この項は、主に9期目の出来ごとということになります。)
※その後、二つの「グループホーム」でお世話になり、三年前ケガで入院手術を期に、自宅介護に変えていました。

★介護保険のありがたさでした・・・

こんな経過ですから、介護保険が出来てから、介護保険の世話になってきました。特に、ここ数年の介護は、助かりました。

@日曜は完全家庭介護、月曜日と木曜日はお昼だけ「さくら介護センター」のヘルパーさんに助けてもらい、大いにたすかりました、しかし、夕方〜朝までは、家庭介護でした。

A月に、10日前後、鶯園のショートでお世話になりました。私が出張や妻が出張など仕事の段取りで「不定期」でした。出かける朝と帰った日の夕方からは家庭介護でしたが、率直にいいまして、母が、いない日は、気が楽と言うか「やれやれ」という思いでした…

Bショートでない曜日、火曜日・水曜日・金曜日・土曜日は、昼間は、ケアガーデンの通所でお世話になっていました。この日は、朝は家庭、9時30分ころ迎えの時に「さくらヘルパー」でおせわになり、夕方帰る時にはケアガーデンの人にベットにねかせてもらい、夕方に私が帰ってから家庭介護・・・・

★この@とAとBを組み合わせた「かいご計画」を作成してもらい、それに合わせて介護を続ける・・・・こんな生活が三年程度続きました。介護日誌は、また機会がありましたら、紹介する時があるかもしれませんが、
朝の6時と夕方の6時には、母の介護が必要と、何があっても、避けられない、待ったなしの介護時間となっていました・・・それでも、ヘルパー2級の資格はもっていますから、実戦では中々でしたが、無いよりはましかなという感じでもありました・・・・


★最初の養父・泉の時は、議員として市政報告の「宣伝」は、「喪があけるまでは遠慮しておくか・・・」の思いで、30年近くやってきた、週何回かの流しを中心とした「独自の宣伝活動」をしないままに、3年が過ぎ去りました…

「今頃、声がきこえませんね」とか「朝立ちの姿をみませんね」とか、何人かの人にいわれまして、心苦しい日もありました・・・まさか、3年連続になるとは、思いもかけないことでした…・
★色んな意味の『挨拶状』も、喪中のお知らせの連続、ご無沙汰が続いています…・今年の「年末」も、また、「喪中」の挨拶と言うことになりますが・・・・
あれや、これや、書きましたが、市議会議員としての10期目の「私生活」における状態です、こんな流れに遭遇する時もあるんですね、少し変な言い方ですが、分かりやすく『10期目の特徴』を言い表しますと、4年間、一回も、一人にも「年賀状すら書かなかった」ということになった訳です。・・・・、まさに、そんなことになりました、まさに微妙なことですね・・・悪しからずですね・・・・
来春の市議選、おもいやられるというのが本音の「こんな時もあるんだ、特別報告」の画面作りでした。

ようこそ 番目

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